兵器局から陣地突破用重戦車の開発を依頼されたヘンシェル・ウント・ゾーン社は、1937年春から後述のDW I、DW II、VK 3001(H)を開発した。いくつかの試行錯誤を経て、1941年にヘンシェル社と他の三社(ポルシェ、MAN、ダイムラーベンツ)は75mm主砲を持つ35t型戦車の設計を提出したが、これらの計画は、主砲を8.8cm戦車砲に変更した総重量45トンのVK 4501に取って代わられた。この製作案は1941年5月26日にヒトラーのバイエルンの山荘イーグルネストで行なわれた兵器の基本的問題を討議する会議で決定されたとされる。この会議は独ソ戦開始の直前であり、このことからもティーガーIがいわゆるT-34ショックで開発されたものではないことが分かる[3]。 その後、バルバロッサ作戦でドイツ軍が遭遇したソ連のT-34は、既成のドイツ戦車を時代遅れのものへ変えた。ヘンシェル社の設計技師だったエアヴィン・アーダース(Erwin Aders)は「ソ連軍の戦車が国防軍のどの戦車よりも優れていると判った時は皆仰天した」と語っている。ティーガーIはそれまでの試作重戦車を拡大した設計であって、後のパンター戦車と異なり、T-34と遭遇したうえでの機械的比較や戦訓をもととした、傾斜装甲などの革新的な設計は取り入れられていない。しかしながら装甲の厚さがこれを補った。ポルシェ社とヘンシェル社は試作車の設計案を提出し、実際に製作された車両は1942年4月20日のヒトラー53歳の誕生日に、ラステンブルクにおいてヒトラーの前で比較された。ポルシェ案のVK4501(P)は、故障の多かった変速機を省略するため、エンジンで発電機を回してモーターを駆動する電気駆動方式を採用し、サスペンションも外部にトーションバーを配置する簡易な設計であった。ヒトラーはこれに関心を示したが、モーターには不足していた銅を大量に必要とするためもあって堅実なヘンシェル案が採用された。ティーガーIことVI号戦車E型の量産は1942年8月に開始された。なお既にポルシェ案の車体も90両先行生産されており、これを流用してフェルディナントまたはエレファントとして知られることになる重駆逐戦車が製造された。ポルシェティーガーには、通常に広く知られているティーガーI(ヘンシェル社型)と比較して多くの相違点が存在する。この戦車の砲塔は車両半分より少し前に配されており、砲塔の形状もヘンシェル社製のものと異なり、操砲時の俯角をとるため、中央部分に突起したクリアランスが設けられている。また、ヘンシェル社製のものと比べると、モーターを搭載する分、全長が約1メートル長く、全幅と全高は少しずつ低い。出力ロスの多いモーター駆動のために最高速度も3km/hほど低かった。電気駆動を採用した結果、機関室が大型化し、また空冷ガソリンエンジンの出力は不足していた。この巨体を動かすには相当大きな電力が必要であったが、平地の走行実験では、電力を供給するコードが焼け、エンジンから煙が出るなどの結果となった。改良を加えてから、下り坂で走行実験をしたところまたしてもコードが焼け、砲塔を旋回させても大電流にコードがもたず、即座に中止となった。放っておいても砲塔は重力に引かれて下を向くという結果となった。ポルシェティーガーの一応の期限は1942年4月20日であり、この日にはヒトラーの査閲を受けるため完成が目指された。しかしエンジンが完成して届いたのは4月10日であり、列車で運ぶ途中にも必死で溶接作業をし、やっと完成して到着したが、満足に行動できないという結果となった。このような過程を経てヘンシェル社の車輛が選定された。後、東部戦線に配備された重駆逐戦車部隊の中に、指揮戦車として数両のポルシェティーガーが配備された。当初は Pzkw VI Ausf. H の名称で開発されたが、後に Ausf. E と変更された。制式番号はSd.Kfz.181である。「ティーガー」の愛称はフェルディナント・ポルシェ博士による命名であった。 ティーガーIは、実質的に試作のまま大急ぎで実戦に投入されたため、生産期間中にわたって大小の改良が続けられた。まずコストを削減するため、初期型にあった潜水能力と外部取り付けのファイフェル型エアフィルターが省略された。防弾ガラスのはめられたスリット式の車長用ハッチのキューポラをペリスコープによる間接視認方式の安全なものに交換したものが中期型、緩衝ゴムを内蔵した鋼製転輪に変更したものが後期型と、後年の研究者によって分類されている[4]。また、修理に戻された本車の一部は、後にシュトルムティーガーに改造された。本車の運用に当たる戦車兵などの兵士用に製作されたマニュアル『ティーガーフィーベル』は、ティーガーIを「エルヴィラ・ティーガー」、という女性に擬人化し(多数の挿絵や図表つき)、兵士のキャラクターがその世話をしながら口説くための恋愛入門書という図式でティーガーIの運用法を解説していた。ティーガーIはこの戦車が登場する以前のドイツ戦車と比較し、主にその設計哲学において異なっている。これ以前のドイツ戦車は機動力と装甲、砲力のバランスを重視したものであった。当時、ドイツ軍において最強の砲火力を持つ戦車は、50mm砲装備のIII号戦車であり、これに対して敵戦車の火力が上回ることもあったが、ドイツ軍は優れた戦術でこの不利を跳ね返した。設計哲学上、ティーガーIはそれまで重視されていたバランスを捨て、機動力を犠牲にして火力と装甲を強化した重戦車である。開発当初、VI号戦車となるべく1937年に作られたDW I、および翌年作られたDW II(DW (D.W.)は Durchbruchswagen の略。「突破車両」の意)、さらに後者を発展させたVK 3001(H)が、1941年までに3両試作されたが、これらの開発は中止となり、より大型のVK 3601(H)の開発が優先された。この車輛はヘンシェル社が開発を行っていたものである。VK 3601(H)には、距離1,400mで100mm厚の装甲を撃ち抜く能力と、前面装甲100mmの防御が要求された[7]。この要求は、のちにドイツ軍が遭遇したT-34との戦訓に由来するものではなく、フランス戦で遭遇したルノーB1やマチルダII歩兵戦車などの連合軍重戦車との戦訓によるものであった。III号戦車、IV号戦車の搭載する短砲身砲が、イギリス、フランスの戦車を撃破するには非力なことは明白で、アドルフ・ヒトラーはこの貫徹力性能の不足に不満を持ち、1941年5月26日、新型戦車開発の命令を下した。この新型戦車は、従来の戦車よりも強力な主砲と装甲を持っていることとされ、また、攻撃の先頭に立ち、敵の陣地を突破できることが要求された。ヘンシェル社のVK3601(H)に搭載する予定であったゲルリッヒ砲の開発は、弾芯に用いるタングステンの不足を理由に中止された。VK3601(H)が要求を満たすには、新規に8.8cm高射砲を改造した戦車砲を搭載することが考慮されたが、これを実現するにはターレット幅の拡大、車体の大型化などの変更を行わざるを得なくなった。そこでヘンシェル社ではVK3601(H)の拡大版として新規にVK 4501(H)を設計することとし、これが後にティーガーIとして採用された。砲塔には、並行してポルシェ教授がクルップ社で開発していたVK4501(P)の設計を用いた。これは開発期限に間に合わせるためのやむを得ない処置であった[9]。こののち、VK4501(P)は、1942年7月27日にクンマースドルフで行われたVK 4501(H)との比較審査において性能を満たさず、最終的に開発が中止された。ティーガーIの車体形状とレイアウトはIV号戦車によく似ていたが、戦闘重量57トンと二倍以上の重さがあった。これははるかに厚い装甲と大口径の主砲を備えていることに加えて、この重量を駆動させるために必然的に大きくなる540リットルの燃料タンクと92発の弾薬格納庫、更に大きなエンジン、強固な変速機とサスペンションを備えた結果であった。
全長 8.45 m 車体長 6.316 m 全幅 3.705 m 全高 3 m 重量 57 t(戦闘重量) 懸架方式 トーションバー方式 速度 40 km/h[1](整地) 20 - 25 km/h[1](不整地) 行動距離 整地100 km、不整地60 km 主砲 56口径8.8 cm KwK 36 L/56(92発) 副武装 7.92mm機関銃MG34×2 装甲 前面 100 mm 側面および後面 60~80 mm 上面および底面 25 mm エンジン マイバッハ HL230 P45 水冷4ストロークV型12気筒ガソリン 700 PS (700仏馬力,690 hp ,515 kW) 乗員 5 名